基礎研究は人類のたからもの(2010年蔵本祭パンフレットのために;高浜洋介;7/20/2010)

 私は、免疫学という基礎医学の一領域の研究にたずさわっています。免疫とは、病原菌など体外から侵入したモノから「からだをまもる」仕組みのことで、その解き明かしは、ひとの予測をしのぐ不思議の重層的な連続で、得も言われぬ魅力があります。私は特に、免疫システムのなかでも胸腺という器官を研究対象としています。寝ても覚めても胸腺、胸腺のためならエンヤコラ、野越え山越え、火のなか水のなか。目の中に入れても・・・それはさすがに痛いでしょうが、胸腺のことは食べてしまいたいほど大好きです。実際、ウシの胸腺は、リードヴォーというフランス料理でおいしくいただきます。

 一方、科学者のひとりとして、社会における科学の役割について思い巡らすこともしばしばです。例えば、科学にとって「社会の役に立つ」とはどういうことでしょう。科学には、クスリの開発など実用化に直結する応用研究もありますが、同時に、実用化は二の次という基礎研究も含まれています。応用研究については、産業界へのインパクトや実現可能性など、社会への貢献を測る尺度がわかりやすいかもしれませんが、問題は基礎研究です。興味があるから、おもしろいから、と研究者の好奇心に基づいて行われる基礎科学研究は、どのように社会の役に立つのでしょうか。

 基礎科学とは好奇心に基づく活動です。好奇心とは、何のために生きているかといった人間の根幹にかかわる生命の原動力のひとつです。好奇心、興味、好きという思い、もっと知りたいという気持ち、対象はさまざまありましょうが、これらはまさに、私たち人類に与えられた生きる喜びです。基礎科学は、人間が人間であることを喜び謳歌する、最も真っ当で健全な歓喜の発露です。また、その成果は、人類の叡智そのものですし、もちろん応用科学の進展に欠かせません。更に、基礎科学は理科好きの子供たちを育て、次世代へと知をつなぎます。すなわち基礎科学とは、人間の生きる原動力のひとつ、根源的な喜びの発露であり、その存在そのものが「人類のたからもの」として社会の役に立っているものなのです。「基礎研究なんて所詮なんの役にも立たないのだよ」といった意見は、小気味よくきこえる側面をもつかもしれませんが、結局のところ単に短絡的な暴論です。

 応用科学と基礎科学を大人と子供にたとえると、それぞれが全く異なる様式で社会に貢献するものであることがわかりやすいかもしれません。仕事に従事する大人は、家計をささえ、社会に貢献しているとの理解が簡単です。これが応用科学です。一方、子供は仕事をしませんし、手のかかる金食い虫との側面も本当です。それが基礎科学です。しかし、仕事をしていないからといって、給料を家に入れないからといって、子供のことを役に立たないと責めたり排除したりするひとはいないでしょう。いまの大人が年金世代になったとき、次世代が育っていないと後悔することのないために必要な見識、それが基礎研究の尊重です。応用科学を偏重して基礎科学をないがしろにするのは全くの大間違い、それを政府が容認するのはまさに国家百年の計に悖る大失政です。

 このように、基礎科学は、そのままで大いに社会の役に立つものであり、その役割は応用科学と異なるものであることに考え至りますと、基礎科学者にむりやり研究成果の産業応用を語らせようとするのは、まったく愚かな科学への介入であると理解されましょう。応用指向の足かせをはめられ、自分の好奇心に基づいた研究を思いきり標榜できない基礎科学なんて、何の魅力があるでしょう?どこの誰がめざすでしょう?基礎研究を実用化の方向に無理強いすることは、将来の科学の芽を摘んでしまう愚挙であり、良識をもって慎むべきです。応用科学は応用科学者が思う存分に力を発揮できるように整備することで発展させ、一方で、基礎科学の研究者には、良質の基礎研究を邁進できる環境を整備し、実用などどこ吹く風とかすみを食って高楊枝、と言わせておくべきなのです。基礎科学と応用科学はクルマの両輪、予算などの取り合いで互いに戦わせるのは愚の骨頂、両方とも大事にするべき人類の大切な活動です。

 学生諸君、大学というところを資格取得の専門学校のごとく矮小化してはいけません。ひとりひとりが、人生とは何か、学問とは何か、社会とは何か、真剣に考える場、それが大学です。大学祭を思う存分たのしむとともに、矜恃を以て学生生活を進めていってください。

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