いまここにいる自分 (2001年蔵本祭への原稿)
一方、あたりまえのことではあるが、競争というものは必ずしも勝つとは限らない。実際、私たちの生活は、大きなことから小さなことまで、敗北で満ちているともいえる。もちろん、敗北の種類はひとによってさまざまだろう。試合とか受験とか恋愛とか就職とか、すぐに特定のできごとに思い当たるひともいるだろうし、そうでもないひともいるだろう。しかし、ひとから見てちいさいことでも本人にとっては重大な、「思い通りにならなくてくやしい思い」に全く出会わず一生を終えるひとなど存在しないのではないだろうか。
そうだとすると、苦い経験の内容はひとそれぞれであったとしても、その経験をどう受けとめ、どういう行動へと昇華させるのかといった心の活動は、何も特定のひとに限定されたことでも目新しいことでもなく、古今東西老若男女の誰にでも共通のプロセスであることがわかる。昨今の「キレる」若者たちの事件報道をみていると、こういった「負けて悔しい自分自身」とつきあうプロセスがたいへん未熟な場合が多いように思われる。そこでこの機会に、生来の激しい気質とつきあってきた私自身が体験的に学んだヒントをひとつ紹介したい。苦い経験をどのように生産性ある明日へと生かしていくことができるのか、多少なりとも若い諸君の参考になればと願うからである。
そのヒントとは、古代ヘブルのソロモン王の言葉から学びとることができたものであるが、実際にはとても単純なことである。ひとことでいうと「社会に蔓延している価値観偏向性に敏感でいよう」ということになる。特に、日本人が陥りがちな<均質な競争社会意識>に対して距離をおこうという考え方である。例えば、確かに私たちはオリンピックでの新記録に心を躍らせたりするが、ひるがえってみたとき、人間だれもがスポーツマンをめざさねばならない理由は何もないのである。かえって、無反省なスポーツ礼賛や健康志向が、時として障害者や病者に残酷であることは容易に理解できるだろう。逆に、障害者や病者がそれぞれ古今東西どんな社会にも、ある一定の頻度で必ずおかれていることに目を留めてみると、障害者や病者といったいわゆる社会的弱者は、実は人類にとってかけがえのない価値の存在であるという考えに至ることができる。なぜなら、障害や病気を背負ったひとが身の回りにいて「ともに生きる」からこそ私たちは、大声で主張することのない弱者のこころを理解しようとするのだし、どのように癒すかを模索し、また多少なりともやさしくなろうとするからである。いっぽう、平板な健康志向は、障害者や病者を敗者として目の前から駆逐しようとし、心の豊かさとかやさしさを育むことができない。そこからは、むしろ不健康ともいえる思索の未熟さが露呈してくる。
このように、健康というキーワード一つを採りあげたとしても、現代の社会に喧伝されてはいないが確かに納得できる価値観に至ってみると、自らが経験する障害や病気、そして敗北や苦い経験に対する態度が、むしろ新鮮に変貌してくるのではないだろうか。もはや、経験の苦さから逃げ回ろうとすることはなく、ぶざまでもぶかっこうでもかまわない「いまここにいる自分」をそのまま受容することが、少しは容易になるのではないかと思う。若い諸君にはぜひとも、身の回りの社会が呈示する価値観に「再考」という反旗を翻してほしい。そして、自分が納得できる人生の価値をじっくりしっかり模索し見出してほしい。人類の長い歴史に耐えてきた古典からは、実に多くのことを学ぶことができるのである。
人間は例外なく必ず老いて必ず死ぬ。たとえひとときの健康や勝利を手に入れたとしても「その先」には、誰にでも必ず自らの死が待っている。権勢を誇るひとであれ純真な赤ん坊であれ、誰もが等しく一度だけ、この世との死別を経験する。人生で最もつらい別れといわれる自分の死をジタバタせずに受け容れる訓練と考えると、苦渋に満ちた様々な経験もありがたいことだと思えてくる。苦い思いをしている自分自身をありのままに受け容れることができたなら、「さあ今日も胸を張って生きていこう」という元気がでてこないだろうか!(2001年9月4日 高浜洋介)
Last updated: September 4, 2001 by Yousuke Takahama