研究のスタイルと科学の魅力 (ノバルティス科学振興財団年報への原稿)  


 免疫システムは、外来異物を排除する一方で自己成分を攻撃しない。この免疫システムがどのように形成され、どのように自己・非自己識別能を確立するのかに心惹かれて、私は研究を進めている。教員でもある私は一方で、年に何度か免疫学の基礎を紹介する機会を持つ。おかげで、ときおり振り返って免疫学黎明期のことを学ぶことができる。そのたびに私は好んでパスツールの白鳥フラスコ実験に思いを馳せる。例の、腐敗が空気中の微生物によって惹き起こされることを示した実験である。この実験は、当時議論されていた微生物の「自然発生説」を見事に否定した実験であるとともに、微生物が腐敗や発酵や病原性の原因となって我々人間と深い関わりをもつことをはじめて示した実験として高く評価され、今もひろく語り継がれている。私自身、小学生の頃に偉人伝でこの実験に出会い、どきどきわくわくして何度読み返したことだろう。当時は直感的に魅力を感じていただけだったが、生物科学研究をなりわいとするようになった今、このパスツールの実験を題材にして研究のスタイルについて考察するようになった。この考察は科学の魅力の一端に触れるとも思うので、この機会に書き進めてみたい。

 あえて書く必要もないほどよく知られた「パスツールの白鳥フラスコ」実験とは、フラスコに肉汁を入れ火にかけるという、至極単純な実験である。このとき、2つのグループを作る。1群のフラスコはそのまま火にかけ、もう1群のフラスコは火にかけている最中に首を細工する。白鳥の首のようにS字型に曲げるのである。あとはこれらを放置する。これだけである。細工をしないフラスコの肉汁は数日のうちに腐る。濁ってくるし匂いも発する。しかし細工をしたフラスコの肉汁は数日たっても透明でなにもおこらない。取り出してみても匂いも味もおかしくなっていない。これらの結果から、@肉汁の腐敗は外から侵入するナニモノかがひきおこす、Aそのナニモノかは目で見えないが火に弱い、ということが示される。では、この「ナニモノ」とはいったい何者だろう?目で見えないが重力に従って動くことから、見えないほど小さいが物理法則に従う物体であることが考えられ、火に弱いということから熱で死ぬような生物であることが考えられる。総合的に最も無理のない結論として、腐敗は微生物が起こすという解釈が導かれる。今から約140年前の実験とその解釈である。

 考えてみるとこの実験の解釈論理には大きな欠陥がある。微少物体が火に弱いといっても必ずしもそれが生物であるとはいえないからである。しかし、レーウェンフックにより開発された顕微鏡を用いて、すでに微生物は観察されていたし、パスツール自身によって発酵は酵母によって起こることが示されていた。さらにはパスツールばかりでなくコッホらによって次々と病原菌が同定されるに至って、微生物の存在と意義は急速に人類に受け容れられていった。それに伴ってこの白鳥フラスコ実験も、微生物の存在を万人に得心させる実験として広く語り継がれるようになったのである。

 振り返って問いかけてみたい。もしも微生物の存在と機能を証明しようという150年前の立場におかれたら私ならどうしただろうか、と。「目に見えないほど小さな生物がいるなら、虫眼鏡の性能を改良して直接見てやろう。それでも見えないならもっと改良してやろう、それでもなお見えなくてももっとよく見えるように工夫していけばきっといつかは見えるはず。」そのような思いを自らに言い聞かせ、しかし毎日浮かんでくる疑念に戸惑いつつ、顕微鏡の改良を重ね、何とか目の前に微生物を見ようとしたかもしれない。言うまでもなく、それまで見えなかったモノを目のあたりに見せるのは、まさに科学研究の王道である。月に行くとか、ヒトゲノムを全部解読するといった仕事に通ずる力わざである。このスタイルの研究は多くの場合熾烈な競争を伴い、その勝者は社会的にも評価をうける。スポーツに通じる潔さで一位の勝者を称えることは、科学研究においても当然であり快い。

 一方、こういった研究と比べたとき、パスツールの白鳥フラスコ実験は、そのスタイルにおいて一線を画すものであることに気づく。万人を納得させる結論の力強さを持っているという点は共通しているものの、顕微鏡など専門家のみが操る特殊な仕掛けに頼ることはない。スープとバーナーとフラスコといった台所用品に毛の生えた道具だけを用いるのである。そのうえ白鳥フラスコの曲線には鮮やかに心ときめかせるような優美さかわいらしさがある。しかし何といっても、白鳥フラスコ実験には「知的活動の妙味」があるのである。つまり、実験結果そのものと同様に結果解釈の論理構築が大きな位置を占める研究であり、それはすなわち実験立案者の知的仕掛けの巧妙さを読者が理解したときに初めて成立する実験といえるのである。更にいうなら、研究者の知的興奮と読者の知的興奮が双方向に共鳴して初めて理解され評価される研究なのである。こういった興奮の共鳴は、いつかは誰かが頑張ってやりとげるだろうと思わせる「思いこんだらド根性」タイプの研究には見られない。実際パスツールは、微生物を証明しようというのに、微生物を見せたわけでも取りだしたわけでもないのである。それなのに、彼は妙なる論旨を展開し、それを聞く者は思わず「なるほど」と小膝をたたいて心を躍らせるのである。コロンブスの卵にも共通するこういった「論理の共有」を要請する研究のスタイルには、私を含めて多くのひとの心を捉える魅力があり、こういった研究こそが、私がそうであったように、子供や若者を科学の道へと導き入れるほど魅惑に満ちた研究なのである。

 多方面での技術が進み、そのおかげもあって腕力でねじ伏せるような力わざの研究が目につく昨今、「知的活動の妙味」をスタイルとする研究は少数派である。しかし、白鳥フラスコ実験が今も古典として語り継がれているという事実は、このスタイルの研究を評価する感性が洋の東西と時代とを越えて通ずるものであることを示している。21世紀に入りゲノム一次構造解明をほぼ終えた生命科学研究は、それら膨大な構造物質がいかに複雑な生命現象を構築しているかを明らかにすべき時代に至った。このような機能解析の時代には、スピードを競うような直線的研究ではなく、腐敗という現象を通して微生物の存在と機能を併せて明らかにしてみせた、白鳥フラスコスタイルの研究がこれまで以上に重要性を増すのではないかと私は思っている。

 過日、共同研究者を訪れた折り、パスツール研究所に足を踏み入れる機会を得た。今もパスツール自身が注ぎ入れた透明な肉汁を湛えて保管されている白鳥フラスコに出会い、偉人伝に心惹かれた子供時代に返った思いがした。彼のフラスコの曲線にみられる妙味と興奮を少しでも自分の科学研究に発揮していくことこそが、これからこの徳島の地で発信していこうとしている私の研究スタイルにほかならない。(2001年6月19日 高浜洋介)


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Last updated: June 19, 2001 by Yousuke Takahama