一免疫学者のみた「免疫の意味論」(現代思想「多田富雄先生追悼」特集のために;一部改変;2010年6月30日)
多田富雄先生を知る免疫学者で先生のご逝去を悼まぬ者はひとりもおるまい。小生は多田研究室出身ではないし、直接の共同研究者でもないが、個人的に知己を頂いた一人として、先生の強靱な議論とその一方での機知に強烈な印象をもっている。今夏に神戸で開催される国際免疫学会議で先生の「メッセージ」を展示すべく、その執筆依頼を準備していたさなかで接した訃報には言葉を失った。
その多田先生を追悼する特集に現代思想から寄稿依頼を得た。「免疫の意味論」について免疫学の立場から思うところを、短くてよいので書かないかというものであった。「免疫の意味論」が連載された1990年代には手にとることをしなくなっていた現代思想ではあるが、1980年代前半にはしきりに目を通していた。1984年12月の「免疫と自己組織化」特集号を含め、実家の震災やいくつもの引っ越しを生き残ってくれた数編は今も大切にしている。現代思想からの執筆依頼は私にとって特別であり、感慨深い。
さて本題である。ひさしぶりに手にした本書は小生にとって少なくとも3冊目。購入して研究室に置いておくと誰かが借りていく。運良く返ってくることもあるがそうでないこともある。大学の研究室というのはそういうところである。そういうところでよい。刊行された1993年から17年が経過した今も本書は、研究室の人々にとって人気ある本のひとつであるし、小生にとっては本棚から見えなくなったら買い直しておきたくなる本のひとつである。
手にとってみて、やはり最初に目に触れ印象深いのは、表紙を飾る永井俊作氏の絵である。多田先生が講演でも好んで使っておられたこの作品「自己と非自己」は、免疫学でいう自己と非自己が、近接し表裏一体のものであることを見事に表現している。免疫システムに内包される多様な認識分子そのものがかたちづくる自己構成成分のセット「内なるイメージ」が非自己認識の本体に他ならないとするニールス・イェルネのネットワーク仮説も巧みに示唆されている。また、この絵を眺めていると、多田先生が自身のテーマとして旺盛に研究に取り組み、メジャーな科学専門誌に華々しい報告を重ねておられた「I−J陽性抗原特異的抑制性因子」のことが思い出される。この仮想分子は、膨大な実験結果とその考察から、多田先生はじめ多くの研究者によって、抗原特異的サプレッサーT細胞の機能を担う分子としてその存在が確信され、その性状について膨大な報告が蓄積されていた。しかし、1980年代中盤、新しい研究手法の登場によって、この分子は幻影にすぎないことが示された。当時の免疫学全体が被った虚脱感は計り知れなく大きかった。当該研究領域のリーダーであった多田先生の失意は尋常ではなかったであろう。穿った見方かもしれないが、多田先生は、この絵に描かれた「なかみのない自己」に、消えてしまった仮想分子のまぼろしを見ておられたかもしれない。
実際に改めて本書をひらいて最も強く感じるのは、本書はまぎれもなく、たいへん優れた免疫学の教科書であるということである。肝腎の免疫システムの機構説明はかなり詳細にわたっている。とりわけ、免疫学にとって本来的に最も重要な命題「免疫システムはいかにして自己と非自己を識別するか」の機構概要とその意義を感動的に伝えることに成功している。多田先生の雄弁な語り口が有効に作用している。現在の免疫学の立場からは、CD8陽性T細胞はサプレッサーT細胞よりもキラーT細胞と呼称されるべきという点など、訂正が適切な要素はある。しかし、書かれている学問の要諦は今も十分に通用するし、免疫学入門書として用いることができる内容である。多田先生ならではというべきスタイルで、様々なポイントが知識人の琴線にふれるように工夫されている。この本は、専門外の知識人に向けられた、歯ごたえ十分の免疫学の解説書といえよう。免疫学は、比較的近い領域の生命科学者からもしばしば難しいといわれる。多くの免疫学者が何とか一般社会に説明しようと努めており、例えば、最近では、日本免疫学会としても「からだをまもる免疫のふしぎ」という本を編集刊行している(羊土社2008年)。ほかにも、さまざまな読者層を対象に多くの解説本が出版されている。しかし、それらのなかで本書は白眉の一冊であり、免疫学者が免疫学を紹介することに成功した最良の例のひとつといえる。
具体的には、多田先生は免疫システム最大の特徴「自己と非自己の識別」を中心テーマに据え、冒頭からニコール・ルドワランらによる有名なニワトリとウズラを用いた移植実験を引用しつつ、『身体的に「自己」を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。』と語る(18ページ)。専門外の読者には強烈な導入である。この論法を免疫学講義の導入に借用し、いまも学生の興味をかきたてようとしている教員は小生だけではあるまい。また、免疫学的には回りくどくても誰をも楽しませる表現『「非自己」は「自己」の中に入り込み、「自己」を「非自己」化するらしい。』を敢えて提示し、そのうえで『それがT細胞によって認識されるのである。』と種明かしをしてみせることで、専門用語「T細胞」を身近な存在として紹介していく(38ページ)。すぐれた教育技術である。更に、本書の最終章では、『解体された「自己」』と題し、時間軸で自己が変容することをふまえて、『「自己」というのは、「自己」の行為そのものであって、「自己」という固定したものではないことになる。』と論ずる(220ページ)。高橋和巳に親しんだ心に響く語り口でもある。
一方、抗原認識レセプターの多様性形成過程に偶然が介在しているようにみえたり、免疫担当細胞が行く先々の組織の微小環境によって生死を含めた運命に多様性が生じたりする、免疫システムの興味深い特徴に注目して、免疫システムを超システム(スーパーシステム)と呼称した試みには違和感を覚える。抗原認識レセプターの多様性形成過程には、ゲノムの不可逆的構造変化が含まれ、その機構には確かに偶然が介在しているように見える。しかし、それが本当に偶然なのかは、今もなお大問題であり、結論には至っていない。現在の知識で理解できない生命現象に対して、偶然や確率論を持ち出して強引な説明を与え、機構探求を停止してしまうのは生命科学者としての役割放棄ではないか。また、免疫担当細胞をとりまく体内微小環境についても、本書が書かれた1990年代前半には確かに殆ど実体が解明されていなかったが、それらを構成する細胞や分子の性質は現在、少しずつ明らかにされつつある。その結果、免疫システムは、免疫担当細胞とともに免疫微小環境も必須の構成成分であることがわかってきた。免疫担当細胞だけを構成成分と想定する免疫システムの矮小理解は明らかな誤謬であり、超システムという新語を追加することで取り繕うべきものではない。無論、システムという語は元来、固定化された決定論的システムのみを指す用語ではないし、可塑性や環境適応性を内包できない概念でもない。わかりにくい部分の含有も排除しない。多田先生は、本書に続いて97年には、一般書「生命の意味論」(新潮社)や、論説「超システムとしての免疫系」(Annual
Reviews of Immunology誌15巻、英文)を発表し、免疫、神経、発生などの生命システムを主な対象に超システム論を展開した。しかし、最近のシステム生物学における用語使用例をみても、超システムという語や概念が支持されている証拠はみられない。超システムとは、従前の免疫システム理解を「超えていった」1980年代中盤以降の免疫学に対する、免疫学者多田先生なりの受容戦略だったのかもしれない。
最後に、「あとがき」に残されている「難解な部分に関してはおいおい改めていきたい」という言葉について触れてみたい。この言葉は、後年になって本書を改訂したいという意向表明にみえる。本書がたいへんすぐれた免疫学の解説書であるだけに、知識更新に即した改訂は、実際、大いに期待された。例えば、今世紀に入って、免疫微小環境とりわけT細胞の自己識別能が確立される胸腺微小環境の研究が進み、胸腺には「胸腺に固有で重層的な自己」が提示されることが明らかにされ、免疫システムの自己形成理解が大きく進展した。それらの新情報を包含して多田先生がどのように免疫学的「自己」を語るのか楽しみであった。しかし、それはついに実現しなかった。残念である。
2003年の日本免疫学会会報に多田先生は「抑制性T細胞:過去と現在」という短文を寄せておられる(11巻1号3ページ)。ようやく抗原特異的サプレッサーT細胞やI−J陽性抗原特異的抑制性因子について総括をはじめられたと、会報編集委員のひとりとして嬉しく接した。近い将来、更なる考察が発信されることを楽しみにしていた。しかし、それもかなわなかった。その短文は、次のように結ばれている。「ともあれ、生涯に一度でも超一級のパラドックスに出会えたことは、研究者として幸運だったと思う。今はそれが解決される日を黙って待とう。」多田先生の死を心より悼む次第である。
高浜洋介