みつけること つたえること (財団法人大阪癌研究会への原稿)
そのヒントを探るため、「コロンブスのたまご」について考えてみた。言わずとしれた、たまごを立てるという話しである。この逸話によると、コロンブス氏は新大陸への冒険計画を審査する国王達を前にして、やおらたまごをつまみあげ「私の計画が可能か不可能かを論じる皆さん、このたまごが立てられますか?」と問いかけるのである。誰もがそれをできないと白状したところで、彼はたまごを机の上に叩きつけてカラをこわし、みごと立ててみせるのである。そして、不可能を可能にする能力の持ち主としての評価を得、冒険への援助を獲得するのである。
真偽はさておき、この「コロンブスのたまご」は大発見の代表のように語り継がれている。それはもちろん、カラやぶりという行為の突飛さ大胆さに多くの人の心がとらわれるからに違いない。しかし、このはなしが大発見として認知されるには、逸話のもうひとつの側面、つまりコロンブスと国王達とのやりとりという側面が必要だったということに目を留めたい。といっても、コロンブスの秀逸なプレゼンテーション技術や、援助金を獲得したという成功に目をうばわれるのではない。もちろんそれらの要素はいずれも過小評価されるべきものではない。しかし、そもそもコロンブスが「カラやぶり行為」を国王達に語り、国王達や第三者のわれわれがその行為から得られる意味を共有して感動し、価値を認めたからこそ、コロンブスのたまごは大発見となったということに目を留めたいのである。
もしかしたらコロンブスは最初、朝ひとり自宅で朝食をとっている時に、ひょんなことからたまごが立つことを観察したかもしれない。「あっ!」と思ったコロンブス自身にとっては、そのときが感動の極大時だったかもしれない。しかしその感動は、山や植物などの自然現象を見て感じる感動や、絵画や音楽を鑑賞して感じる感動と同じく、個人的な心の動きである。個人的感動の豊かさ深さはおおいに楽しみたいし、それはたしかに科学することの醍醐味のひとつである。しかし、それだけでは《みつける》という営みは成立しない。
このときコロンブスは、「あっ!おもしろい」と感動して、その感動を誰かに語りたくなったにちがいない。その相手は家族かもしれないし、友人かもしれない、すでに国王達のことが頭に浮かんだかもしれない。語る相手が誰であれ、観察して心におぼえた感動をひとに伝えようとしたことは、実際に国王達の目の前で彼がとった行動から容易に推測できる。しかし、感動をひとに伝えるには、まずは観察したことの「意味」を自分が咀嚼して得心する必要がある。いま目の前で見たことのどこに感動したか、何がおもしろいのか、そのどこにどのような価値があるのか、といった意味づけである。それらについて、ひとに伝えることを前提に意味を思考する知的活動の妙味に、科学の二つ目の醍醐味があるといえる。この活動によって、思いもよらなかった仕組みや応用が明らかになったと確信されたとき、はじめて観察の「意味」が芽生え、ひとに語るべき価値のある「発見」の原型ができあがるのである。コロンブスは、たまごのカラやぶりという行為そのものをみつけたのではない。カラがやぶれることによってたまごが立つことそのものは、古今東西多くのひとに観察されていたはずである。コロンブスはカラやぶり行為の「意味」を発見したのである。
そして、こういった「意味」は、ひとに伝えられてはじめて「発見」とみなしうる。たまご立てを示してみせるコロンブスを前にして、国王達はコロンブスの企画実行能力の大胆さという意味を納得した。こうして、コロンブスのたまごという「発見」が認知されたのである。更に、コロンブスが企画して国王達が得心した発見の興奮を、私達を含めてこの話しを聞いた第三者が追体験して心をうたれ「なるほど!」と小膝をたたくということで、コロンブスのたまごは現代も発見として語り継がれる逸話として語り継がれるのである。すなわち《発見》とは、複数の人格による心の共鳴によってはじめて成立するものであり、それゆえ誰かが個人でできる活動ではなく、複数の人間による知的活動ということができる。思考プロセスの共有を図る《つたえる》という行為は「発見」という営みの一部とすらいえる。何かをみてどんなに感動したとしても、それをひとりで心にとどめているのであれば、それは《みつける》ということにはならない。たとえそれが、自ら企画した実験から得られた大興奮であったとしても同じである。何かにひとりで感動することはもちろん楽しい。しかし、《みつける》という営みには「発見した!」と発信する者と「なになに?」と受信する者のあいだでの心の共鳴が必要不可欠なのである。生身の人間がときめきをやりとりするところにこそ、私達のこころをとらえて離さない、彩り鮮やかな科学の三つ目の醍醐味がある。
このように考えると、我々自然科学者の《みつける》という営みとその喜びとは、実験などから得られる個人的な観察事項のみを指すのではないことが明白になる。実験や観察が科学の重要な要素であるのはいうまでもないが、観察から新たな理解を導く心の活動や、それをひとに伝える対人活動を併せた総合的な活動が、「発見」を指向する科学の営みというものであり、科学とは《つたえる》という行為と隔離しては存在しえない営みだということが改めて浮き彫りにされる。科学者たるもの、観察したことの意味を十二分に咀嚼考察し、社会に対して意味を《つたえる》責任があるのである。資金を含めさまざまな援助を社会から得ている現代の科学者であるならばなおさらである。私自身も、社会に接点を持つ「コロンブスのたまご」の発見に至ることを目指して、これからもTリンパ球と胸腺の発生機構に関する研究活動に更に励んでいきたい。(2002年2月6日 高浜洋介)
Last updated: February 6, 2002 by Yousuke Takahama