私にとって大学キャンパスとは何かキャンパスアウトローへのエール;HP版

 本学に赴任して1年半、蔵本キャンパスに教官として通勤する毎日である。会社や公立の研究所に勤めていたころはもちろん、前任地の大学でも、勤務地は学生エリアから離れていた。そのため、学部学生の多い蔵本での生活は、私にとって久々のキャンパスライフであり、新鮮である。

 今も若いつもりの私だが、その半分程度の年齢を謳歌する学生たち。食堂近辺のベンチで夢中に話す姿、板に付かない白衣姿で闊歩する姿、ラリーの続くテニスボールの音、夜遅くまで止まないバンドの音。そのいずれもはごくあたりまえのキャンパスの姿である。大学のキャンパスをキャンパスとして特徴づけるのは学生であり、学部学生である。自分の学部学生時代を投影しつつ、学部学生にとってキャンパスとは何か、思い巡らせた。

 

 例外こそあれ大多数の学部学生は、二十歳前後の若者である。彼らにとって学部学生という期間は、重要な人間形成期である。受動態の「いい子」に徹することが求められてきた生徒という名の子供から、能動態で生きるひとりの人間へと脱皮を遂げる変換期である。その意味で、講義くそくらえの反骨は教員の顔色をうかがう従順よりも格段に優れているし、自ら考えた間違い答案は参考書を書き写した正解答案にまさる。また、心の燃える課外活動は、十年一日の講義への眠い皆勤よりも遙かにふさわしい。権威や権力に挨拶がわりのしっぽを振る技術の習得は、人生の方向を決めた後においておいていい。学部学生時代は思う存分やんちゃであるべきであり、学部学生の無防備な試行錯誤こそは豊かな人生の礎である。

 私自身も20数年前、自分なりの希望に満ちて大学に入学した。しかし、大学でありながら高校と同質のいい子を求める「勘違い教員」とそれに媚びる「金太郎飴」たちが幅を利かせる、その大学での学部教育姿勢に失望した。その結果、部室と雀荘を行き来しつつ、学問と訣別して生きる方向を模索する生活を送った。この時、キャンパスの果たす役割は大きかった。そこには興味を共有する仲間がいた。そこには同様の問題に悩む同志がいた。キャンパスという培養器がなければ私の大学との関係は不可逆的訣別に陥ったのは間違いない。人生方向の模索を許容する場所がキャンパスであり、そのために果たすキャンパスの役割は大きい。部室・芝生・食堂といった、直接教育施設ではないキャンパス部分の果たす役割は殊に大きい。

 この、一見ムダとも思える雑然たるキャンパス部分なるものが栄養となって人間を形成するのであり、それが糊となって「教員を越える人間」が大学に留まり得るのである。私自身、こういったキャンパスでの培養中に、メッキ武装に汲々としない生涯の恩師に出会い、人生を賭けるに価する科学研究のおもしろさに出会った。

 

 昨今のインターネット技術は、大学や大学院のネット環境での教育提供を可能にした。遠隔地生活者・勤労年齢層・主婦・高齢者・療養者など、従来の方法では対象となりにくかった学生を高等教育へと歓迎する有用な手段である。それは大学経営の視点からも魅力的なマーケットである。しかし、ネット教育やサイバー大学がどんなに大きくなったとしても、従来のキャンパスの意味は色あせない。それは青年期の人間形成に大切な役割を果たす培養器だからである。あそびを内包したキャンパスという存在は、一見無駄や損失に見えることがらがこの世でかけがえのない大きな役割を果たす典型でもある。

 このような思いを巡らしつつ、「いい子でない」学生との出会いを心待ちにする毎日であり、そのひとを受け容れる度量を持ち続けたいと願う毎日である。 (2000.7.4・蔵本祭パンフレットのために・高浜洋介)


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